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2016年8月17日 (水)

熱田神宮(再訪)2

◆大楠
神宮の一の鳥居左手にある上知我麻神社と八剣宮を参拝後、参道に戻り、本宮に向かいます。二の鳥居をくぐると、左手に「大楠」があります。樹齢1000年を超える大木。空海が植えたという伝説が残っています。境内には楠が多くあります。

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この日は、暑いものの、数年前に訪れた時に比べるとまだまし。時折心地よい風が吹いてきます。陽射しも木々に遮られ、直射日光に常に身をさらすこともありません。逆に言えば、なんで数年前はあんなに疲弊したんだか、よく分かりません。大楠を過ぎて、三の鳥居をくぐるといよいよ本宮。なぜか参道は左斜めに曲がっています(その理由が後で分かります)。

◆本宮
本宮。ご神体は草薙剣(天叢雲剣)で、ヤマタノオロチを斃した際、その身体から素盞鳴尊が手に入れたもの。その後、素盞鳴尊が九州侵攻する際、政略結婚で妻に迎えた宮崎の豪族の娘、アマテラスに渡している。これがそのまま、天孫系の天皇に伝わり、神武-垂仁まで朝廷が保持していました。最期は垂仁の娘である倭姫が20年の放浪の末、創祀した伊勢神宮に伝わっていました。

ただ、景行天皇(垂仁の息子)の時代、倭建尊が東征する際、倭姫が身を守る神剣として倭建尊に渡してしまいます。さらに東征後、これを倭建尊が宮簀媛に婚姻の印として渡してしまうわけです。ちょうど素盞鳴尊がアマテラスに渡したように。これを宮簀媛ご神体がとして熱田神宮に祀ってしまうので、話がややこしくなる。

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ちなみに、草薙剣は668年、天智天皇の時代に、新羅の僧・道行によって盗みだされています。道行が船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げてしまいます。その地が大阪の放出(はなてん)。放出の地名の由来がここから来ていることを知ったときにはやや驚きました。ちなみに、草薙剣は里人により拾われたとされていいます。
この地には、この時、草薙剣を一時保管したという故事をもとに創祀された阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)があります。放出は内陸部ですが、古代、大阪湾からここまで海が入り込んでいました=河内湾。放出駅北口に線路と平行して走っている道路を渡るとその北側は急に土地が低くなっています。ここがちょうど海岸線だったようです。

阿遅速雄神社は江戸時代まで八剣社と呼ばれていました。八剣は草薙剣のこと。この名は熱田神宮にある別宮八剣宮と同じです。ただその後、なぜか剣は熱田神宮に戻らず、朝廷に収められていました。そして、天武天皇が病を得た際、これが草薙剣の呪いとされ、熱田神宮にようやく戻されます。ですので、現在、伊勢神宮にあるものはレプリカという説もあります(逆に、熱田神宮の草薙剣がレプリカという説も)。

熱田神宮の祭神は今では倭建尊、素盞鳴尊、天照大御神、建稲種命、宮簀媛ですが、宮簀媛が創祀した時は倭建尊と草薙剣を祀ったと思われます。

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ちなみに熱田神宮は尾張三の宮で一の宮ではありません。一の宮は一の宮市の真清田神社、二の宮は犬山の大懸神社。いずれも尾張の祖先神を祀るもので、前者は饒速日命(素盞鳴尊の子供)、後者も諸説ありますが饒速日命のようです。


大縣神社の摂社には建稲種尊(宮簀媛の兄=倭建命の東征に従軍し遭難死)の妻、玉姫命が祀られています。尾張の有力豪族、大荒田氏の娘です。彼女は大縣神社から数キロほど離れたところにある田縣神社に御歳(饒速日命の娘=神武天皇の后)とともに祀られています(田縣神社そのものが大荒田氏邸だったとされています)。


◆一之御前神社
本宮の西北方向の裏手にあります。天照大御神の荒魂を祀ったところ。本宮の左側の道を北上した突き当りに鎮座。ここから東に伸びる道があります。この道は本宮の真後ろを通って、「こころの小径」に通じています。こころの小径の木々の中を進むと本宮の東側にある清水社にでられます。

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◆こころの小径
2012年から開放されたようです。前回来た時は全く気づかず。木々の中を気持ちよく歩けます。ほんの数分歩くだけですが。清々しいところです。実は写真を撮ったのですが、撮影禁止だったようなのでブログにはあげません。熱田神宮の中でもっとも神聖な場所だそうです。どういういわれがあるんでしょう。

◆清水社
湧き水が出ている「清水」があり、そこに鎮座。祭神は水をつかさどる神様である罔象女神(みずはのめのかみ)。この清水は平家の武将、平景清が目を患った際に使った所、快癒したという話が残っています。

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清水には人が列を作ってました

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清水社

◆土用殿
清水社を出て少し行った、右手の小高い地に建てられている。ここを登ると土用殿。もと、草薙剣を奉安した御殿とのこと。旧本殿の東に相並んで鎮座していたそうです。様式は宝庫造、俗に井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる造りで、屋根切妻桧皮葺の箱棟とのこと。永正14年(1517)将軍足利義稙(よしたね)の造営と伝え、天文11年(1542)修造されており、昭和46年に屋根を銅板葺にして復元されました。

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ちなみに熱田神宮は明治26年に改造されていますが、その際、本宮は元の位置から西に移動しています。参道が三の鳥居を過ぎて左(西)に斜めになっているのはそのせいです。この土用殿は明治の改造前の本宮の横に並んで建っていたので、このことから考えても、本宮は今より東側にあったことがわかります。
明治26年の改造は熱田神社から熱田神宮へと格式が上がったことに合わせて行われました。それまでの尾張造りから伊勢神宮風の神明社造りに変更されています。もともと尾張氏の神社として独自性を保っていたことを考えるとやや残念ではあります。


◆御田神社、龍神社
実は土用殿に向かう道を登らず、清水社からまっすぐ歩いていれば、御田神社と龍神社が左手に見えてくるはずでした。ところが土用殿から神楽殿に抜けてしまい、参拝できず。

御田神社は五穀豊饒の神、大歳(稲荷社の宇迦之御魂神と同一視する説もあり)。この大歳は実は饒速日命の別名です。九州から東征し神武天皇前に奈良を支配した饒速日命は九州や兵庫あたりまでは大歳として祀られ、大歳神社が各所にあります。尾張氏はその子孫に当たります。

一方、龍神社は吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)が祭神。倭建尊の東征に従軍した武将です。吉備武彦命の2人の娘は景行天皇と倭建尊に嫁いでいる実力者。両者とも滋賀県にある武部神社(倭建尊を祀る)の摂社である行事神社に祭神として祀られています。

土用殿、神楽殿を抜けると本宮の前に戻ってきます。ちょうど本宮を一周した形です。最期に上知我麻神社に行こうと思ったのですが、道がわからず。よく見るといったん神宮の外に出て、神宮の西を走る伏見通りを北上しないと行けないようです。そこで、神宮境内とはお別れ。神宮の西北のはしにある上知我麻神社に向かいました。


◆上知我麻神社
宮簀媛の母親を祀った神社。素朴な造り。神宮西の伏見通りに面しています。江戸時代、ここは東海道の宿場「宮(熱田)」に向かう道でした。宮からは桑名までは海路。いつしかこの神社は旅の安全を祈願する神社になったようです。もっとも古代史とは関係ないですが...。

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参拝後、そばにある地下鉄神宮西駅から名古屋に向かいました。来年は名古屋に来られるんだろうか..。頑張れグランパス(棒読み)。

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