神社

2016年8月17日 (水)

熱田神宮(再訪)2

◆大楠
神宮の一の鳥居左手にある上知我麻神社と八剣宮を参拝後、参道に戻り、本宮に向かいます。二の鳥居をくぐると、左手に「大楠」があります。樹齢1000年を超える大木。空海が植えたという伝説が残っています。境内には楠が多くあります。

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この日は、暑いものの、数年前に訪れた時に比べるとまだまし。時折心地よい風が吹いてきます。陽射しも木々に遮られ、直射日光に常に身をさらすこともありません。逆に言えば、なんで数年前はあんなに疲弊したんだか、よく分かりません。大楠を過ぎて、三の鳥居をくぐるといよいよ本宮。なぜか参道は左斜めに曲がっています(その理由が後で分かります)。

◆本宮
本宮。ご神体は草薙剣(天叢雲剣)で、ヤマタノオロチを斃した際、その身体から素盞鳴尊が手に入れたもの。その後、素盞鳴尊が九州侵攻する際、政略結婚で妻に迎えた宮崎の豪族の娘、アマテラスに渡している。これがそのまま、天孫系の天皇に伝わり、神武-垂仁まで朝廷が保持していました。最期は垂仁の娘である倭姫が20年の放浪の末、創祀した伊勢神宮に伝わっていました。

ただ、景行天皇(垂仁の息子)の時代、倭建尊が東征する際、倭姫が身を守る神剣として倭建尊に渡してしまいます。さらに東征後、これを倭建尊が宮簀媛に婚姻の印として渡してしまうわけです。ちょうど素盞鳴尊がアマテラスに渡したように。これを宮簀媛ご神体がとして熱田神宮に祀ってしまうので、話がややこしくなる。

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ちなみに、草薙剣は668年、天智天皇の時代に、新羅の僧・道行によって盗みだされています。道行が船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げてしまいます。その地が大阪の放出(はなてん)。放出の地名の由来がここから来ていることを知ったときにはやや驚きました。ちなみに、草薙剣は里人により拾われたとされていいます。
この地には、この時、草薙剣を一時保管したという故事をもとに創祀された阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)があります。放出は内陸部ですが、古代、大阪湾からここまで海が入り込んでいました=河内湾。放出駅北口に線路と平行して走っている道路を渡るとその北側は急に土地が低くなっています。ここがちょうど海岸線だったようです。

阿遅速雄神社は江戸時代まで八剣社と呼ばれていました。八剣は草薙剣のこと。この名は熱田神宮にある別宮八剣宮と同じです。ただその後、なぜか剣は熱田神宮に戻らず、朝廷に収められていました。そして、天武天皇が病を得た際、これが草薙剣の呪いとされ、熱田神宮にようやく戻されます。ですので、現在、伊勢神宮にあるものはレプリカという説もあります(逆に、熱田神宮の草薙剣がレプリカという説も)。

熱田神宮の祭神は今では倭建尊、素盞鳴尊、天照大御神、建稲種命、宮簀媛ですが、宮簀媛が創祀した時は倭建尊と草薙剣を祀ったと思われます。

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ちなみに熱田神宮は尾張三の宮で一の宮ではありません。一の宮は一の宮市の真清田神社、二の宮は犬山の大懸神社。いずれも尾張の祖先神を祀るもので、前者は饒速日命(素盞鳴尊の子供)、後者も諸説ありますが饒速日命のようです。


大縣神社の摂社には建稲種尊(宮簀媛の兄=倭建命の東征に従軍し遭難死)の妻、玉姫命が祀られています。尾張の有力豪族、大荒田氏の娘です。彼女は大縣神社から数キロほど離れたところにある田縣神社に御歳(饒速日命の娘=神武天皇の后)とともに祀られています(田縣神社そのものが大荒田氏邸だったとされています)。


◆一之御前神社
本宮の西北方向の裏手にあります。天照大御神の荒魂を祀ったところ。本宮の左側の道を北上した突き当りに鎮座。ここから東に伸びる道があります。この道は本宮の真後ろを通って、「こころの小径」に通じています。こころの小径の木々の中を進むと本宮の東側にある清水社にでられます。

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◆こころの小径
2012年から開放されたようです。前回来た時は全く気づかず。木々の中を気持ちよく歩けます。ほんの数分歩くだけですが。清々しいところです。実は写真を撮ったのですが、撮影禁止だったようなのでブログにはあげません。熱田神宮の中でもっとも神聖な場所だそうです。どういういわれがあるんでしょう。

◆清水社
湧き水が出ている「清水」があり、そこに鎮座。祭神は水をつかさどる神様である罔象女神(みずはのめのかみ)。この清水は平家の武将、平景清が目を患った際に使った所、快癒したという話が残っています。

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清水には人が列を作ってました

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清水社

◆土用殿
清水社を出て少し行った、右手の小高い地に建てられている。ここを登ると土用殿。もと、草薙剣を奉安した御殿とのこと。旧本殿の東に相並んで鎮座していたそうです。様式は宝庫造、俗に井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる造りで、屋根切妻桧皮葺の箱棟とのこと。永正14年(1517)将軍足利義稙(よしたね)の造営と伝え、天文11年(1542)修造されており、昭和46年に屋根を銅板葺にして復元されました。

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ちなみに熱田神宮は明治26年に改造されていますが、その際、本宮は元の位置から西に移動しています。参道が三の鳥居を過ぎて左(西)に斜めになっているのはそのせいです。この土用殿は明治の改造前の本宮の横に並んで建っていたので、このことから考えても、本宮は今より東側にあったことがわかります。
明治26年の改造は熱田神社から熱田神宮へと格式が上がったことに合わせて行われました。それまでの尾張造りから伊勢神宮風の神明社造りに変更されています。もともと尾張氏の神社として独自性を保っていたことを考えるとやや残念ではあります。


◆御田神社、龍神社
実は土用殿に向かう道を登らず、清水社からまっすぐ歩いていれば、御田神社と龍神社が左手に見えてくるはずでした。ところが土用殿から神楽殿に抜けてしまい、参拝できず。

御田神社は五穀豊饒の神、大歳(稲荷社の宇迦之御魂神と同一視する説もあり)。この大歳は実は饒速日命の別名です。九州から東征し神武天皇前に奈良を支配した饒速日命は九州や兵庫あたりまでは大歳として祀られ、大歳神社が各所にあります。尾張氏はその子孫に当たります。

一方、龍神社は吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)が祭神。倭建尊の東征に従軍した武将です。吉備武彦命の2人の娘は景行天皇と倭建尊に嫁いでいる実力者。両者とも滋賀県にある武部神社(倭建尊を祀る)の摂社である行事神社に祭神として祀られています。

土用殿、神楽殿を抜けると本宮の前に戻ってきます。ちょうど本宮を一周した形です。最期に上知我麻神社に行こうと思ったのですが、道がわからず。よく見るといったん神宮の外に出て、神宮の西を走る伏見通りを北上しないと行けないようです。そこで、神宮境内とはお別れ。神宮の西北のはしにある上知我麻神社に向かいました。


◆上知我麻神社
宮簀媛の母親を祀った神社。素朴な造り。神宮西の伏見通りに面しています。江戸時代、ここは東海道の宿場「宮(熱田)」に向かう道でした。宮からは桑名までは海路。いつしかこの神社は旅の安全を祈願する神社になったようです。もっとも古代史とは関係ないですが...。

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参拝後、そばにある地下鉄神宮西駅から名古屋に向かいました。来年は名古屋に来られるんだろうか..。頑張れグランパス(棒読み)。

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2016年8月16日 (火)

熱田神宮(再訪)

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名古屋戦の勝利の翌日(8月14日)、暑い中、11時ころから約2時間半かけて参拝。

この日の朝、8時過ぎの列車で豊田市駅を出発、約1時間で栄駅に到着。酒津屋中店でお仲間と昼のみw
昼前からやっている栄の地下街の居酒屋ですが、ツマミや酒の種類が多く、なかなかグッド。数年前は同じ栄駅の酒津屋東店にお邪魔してます。

1時間ほどくつろいで、JR名古屋駅から名鉄に乗り換え、神宮前駅へ。熱田神宮を再訪です。

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前回は本宮に参拝する程度であまりの暑さにお休み処でかき氷を食べて早々に撤退しましたが、今回はなるべく多くの摂社を回ることに。もっとも案内板に紹介されていない摂社もあり、今回も取りこぼしが多数あったのでやや心のこりですが(御田神社、龍神社など)。

熱田神宮は、もともと倭建命の尾張における后、宮簀媛が尊の死後、手元に残った草薙剣をご神体にして創祀した神社。彼女はその後、尾張家の中心人物として尾張国造になった人物。
尾張氏はもともと奈良を支配した出雲系の饒速日尊(神武天皇の義父、素盞鳴尊の息子)の子孫。饒速日の息子、天香語山尊(高倉下)が奈良から、三重、尾張に抜けて、勢力を拡大した後、土着した一族です。その後、その一族は新潟にまで勢力を伸ばし越後一ノ宮の弥彦神社に天香語山尊は祀られています。
そういう関係で、摂社も出雲系の神様のオンパレード。なかなか面白いところです。
ちなみに尾張氏は、その後、応神天皇の大臣、継体天皇の后を輩出し、壬申の乱では天武天皇に協力し、勢力を伸ばします。しかし、持統天皇が藤原不比等のもと、天照大御神系の神話を朝廷の歴史の柱に据えていく中で、出雲系の尾張氏の系譜は次第に排除されていきます。これは伊勢神宮から饒速日尊や、伊勢神宮に土地を提供した出雲系の猿田彦の存在を隠していく流れと並行して進んでいきます。

この後は、当日、インスタグラムに上げた投稿を再編集してあげます。
まずは、駅を降りて、東門から境内に入り、南北に走るメインの参道に出て、左折、順に南に下って行きます。最初に出くわすのが皮肉なことに天照大御神を祀る徹社。

◆徹社
天照大御神の和魂を祀ってある。まぁ、あとから作ったんでしょう。天照を祀る理由がありませんから。

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◆楠御前社
伊邪那美命伊邪那岐が祭神。なぜか安産の神となっている。本殿前の小さな鳥居は安産祈願をした人が奉納したもの。熱田神宮創設時からあったとは思えませんが、由来はよくわかりません。

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◆南新宮社
祭神は出雲の象徴、素盞鳴尊。熱田神宮の例祭は大山祭、天王祭、祇園祭といったらしいですが名前の由来はいずれも素盞鳴尊からきています。天王、祇園はご存知京都の八坂神社のこと。大山は大山祇神のことでこれも素盞鳴尊の別名。熱田神宮を創始した宮簀媛(尾張氏)が出雲系(先祖は須佐之男命の孫、天香語山尊)だからでしょう。

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◆孫若御子社
祭神は天火明尊。天火明尊は尾張氏の祖先、天香語山尊の父である饒速日命のこと。彼は須佐之男命の子であり、神武天皇の義父でもある。 彼は尾張一ノ宮真清田神社の祭神。ちなみに熱田神宮は三ノ宮。

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◆日割御子神社
祭神は素盞鳴尊と天照大御神の間に生まれた二人の長男であるアメノオシホミミ。熱田神宮は海辺の台地に位置していましたが、ここは水際に張り出た洲崎だったそうです。熱田神宮の一番南にあります。

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ここで熱田神宮の最南端、一の鳥居に出ます。鳥居に向かって今度は、左に次の2つの摂社があります。

◆上知我麻神社
日本武尊の尾張の妻である宮簀媛の父、乎止与命(オトヨ)を祀ってある。熱田神宮は日本武尊の死後、宮簀媛が草薙剣をご神体として祭って創始した神社。このため尾張国造である父のオトヨを祀ったようです。宮簀媛もその後、尾張国造になって自身が熱田神宮に祀られます。同じく熱田神宮に祀られている兄の武稲種尊は日本武尊の遠征中に遭難死した人物です。宮簀媛はその兄の遺児の後見としてしばらく尾張国造になったようです。

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◆八剣宮
宮熱田神宮の別宮。本宮と祭神は一緒。元明天皇のときに作った神剣をまつっているともいわれてます(となるとそれはレプリカとなってしまいますが)。そのかわりに草薙剣を天皇家の神器にしたともいわれています。この辺は混沌としてます。

ちなみに、草薙剣は天武天皇時代に一度盗まれ、取り戻したとされていますが、なぜか天武天皇のときには草薙剣が宮中にあったようです(後述)。天皇家としては神器として草薙の剣が欲しかったようです。その後、天皇が発病、これが剣の呪いと言われ、熱田神宮に戻しています。
本来、神剣とするなら、素盞鳴尊がやまたのおろちを切った布都御魂剣が皇統を示す剣のはずです。それが証拠に、神武天皇が饒速日尊の娘である御歳に婿入りする際、皇統の証拠として布都御魂剣を神武に渡したとされています。ただ、その後、剣は出雲系の神社、奈良の石上神社の神器となり、手が出せなくなっています(ヤマタノオロチを切ったのが布都御魂剣で、その際、オロチから手に入れたのが、草薙剣=天叢雲剣です)。

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(続く)

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2015年9月13日 (日)

【参拝記】生田神社(神戸市)

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 2015年第一ステージ優勝の翌日。ホテルを出る前に生田神社へ散歩。何度も来たことがあるのですが、何故か生田の森に入ったことがないのでちょっと見学へ。

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拝殿から楼門側を振り返る

 生田神社は同じ兵庫県内にある廣田神社、長田神社と並んで神功皇后絡みの縁起のある神社。神功皇后が三韓征伐の帰路、船が動かなくなったので神託を受けたところ、海上五十狭茅(うながみのいさち)に自分を祀らせろという神託が稚日女尊からあったというのが創祀のきっかけ。神戸周辺の神社によくある縁起話です。前日に参拝した敏馬神社でも「船が動かなくなる」話が残っています。こちらの祭神は素盞鳴尊(ただしお告げは「美奴売神(ミヌメ)」からのもの)。

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 もともとは新幹線の新神戸駅の裏手にある布引山に祀られていました。この地には有名な布引の滝があります。ちょうど神戸戦参戦の日に訪れていました。

 その後、生田神社は799年(延暦18年)4月9日の大洪水をきっかけに現在の地に移ってきたとされています。神戸市中央区の一帯が生田神社の社領で、そこには税を納めて神社を支える氏子のような人たちがおり、その地を「神戸」と呼んでいました。これが神戸の語源となっています。

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布引の滝。新神戸駅裏手の布引山にある

 祭神の稚日女尊は一般に天照大神のこととも、その妹とも言われていますが、神功皇后との関係が感じられません。稚日女尊は和歌山県の玉津島神社にも祀られています。ここでは、神功皇后が仲哀天皇死後の跡目争いで忍熊皇子と対立した際、和歌山に向かった神功皇后を稚日女尊が加護したとなっています。

 稚日女尊は下照姫ではないかという説もあります。下照姫は大国主(素盞鳴尊の娘婿)と田心姫命(素盞鳴尊と天照大神の子供、宗像三神の一人)の娘で、神武天皇の東遷の際、大和のウマシマジ(饒速日の息子)と交渉にあたった味金且高彦根(アジスキタカヒコネ)神の同母妹となります。つまり素盞鳴尊の孫ということです。素盞鳴尊のフリークである神功皇后と少し関係が出てきますw

 ちなみに祭祀を担当した海上五十狭茅は生田神社の社家(神職)の先祖。忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍「五十狭茅宿禰(いさちのすくね)」の息子とされています。海上五十狭茅がどういう経緯で神功皇后側についたのか、親子で敵味方に別れるというのはよくあることですが、興味深い話です。

 また、生田神社には「灘の生一本」で知られる日本酒の生産地、「灘五郷」発祥の地ということから松尾神社が摂社として祀られています。これも神功皇后が絡んでます。三韓征伐の後、新羅から使者が毎年訪れ、その際、敏馬神社のある「敏馬の泊」で生田で醸造した酒をふるまったのが酒造りの始まりとされています。その酒は、廣田神社、長田神社、生田神社、片岡神社から50束ずつ集めた稲で造ったもの。

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生田の森の入口

 さて肝心の生田の森、入口までいくと午前10時から開門となっていましたが、7時過ぎのこの時点で入れました。こじんまりとした森。かつては広大な広さを誇り、一の谷の戦いの時に平家軍が陣を置いたとのことですが、その面影はありません。呆気無く散歩は終了。ホテルに帰って、再び神社めぐりです。

 

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2015年9月 6日 (日)

【参拝記】敏馬神社(神戸市)

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 2015年第一ステージ優勝をかけた神戸戦前に参拝。三ノ宮の東横インに荷物を預けた後、阪神電車で2駅の岩屋駅へ。神社へはそこから5分ほどです。神社の前は国道2号線が走っています。

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 西日本や北九州には神宮皇后にまつわる故事が数多く残っていますが、神戸もそうした話の多い地域。

 神社は丘陵地の斜面に立っています。ちょうど海に突き出た岬のような立地です。正面は平地でかつては敏馬(みぬめ)浦という浜がひろがっていたところです。また神社の東側は古代「敏馬の泊」と呼ばれた港があったところ。奈良中期以降、大輪田の泊に港が移るまで西国や中国への船旅にとって重要な役割をになっていました。

 ちなみに大輪田の泊はその後平清盛が拡張した港。我々がサッカー観戦するノエビアスタジアムのあたりになります。

 そうした港に絡んだ話がいろいろ残っていて、それも面白い。曰く畿内から船出した人たちが生駒山を眺められる最後の地であるここで一泊し、西へ船出した、曰く、畿内に入る前の禊の場所だった、曰く、大和に向かった新羅人が畿内に向かう前、生田神社で醸した酒をここで飲んで身体を清めたなどです。 そういえば、三ノ宮にある生田神社の摂社に松尾神社(酒の神として有名)があり、そこの説明板にも同様のことが書かれています。江戸期には酒蔵が多くあった場所で、摂社には松尾神社もあります。

 「十三のいま昔を歩こう」というサイトの「神戸アースダイバー・西求女塚古墳・処女塚古墳」というページに当時の海岸線は再現した地図が載っています。これを見ると敏馬の泊が畿内に入るための入口ということがよくわかります。地図はこちら

 神社の境内にはかつての敏馬浦の写真や地図が展示されていてなかなか参考になります。下の写真もその一つです。室町時代の地図ですが、敏馬神社(岩屋とあるところ)の前がすぐ海岸線になっていることや近くにある3つの古墳も描かれています。

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 この古墳には一人の美女をめぐって争った2人の男性とその女性が葬られているという説話が残っています。味泥(西求女塚=求婚した男性)、東明(処女塚=求婚された女性)、住吉(東求女塚=求婚したもう一人の男性)とあるのがそれです。実際のところは3~4世紀ころの地域の有力者のもののようです。大和朝廷が中心となって広まった前方後円墳ではなく前方後方墳の流れを組む古いものです。

 ちなみに神功皇后の三韓征伐=敏馬神社の創祀は神功皇后摂政1年の201年ということになっていますが、かなり時代的に盛られており、実際は3世紀後半から4世紀あたりのはず。これらの古墳と時代的にかなり近い感じがします。

 敏馬神社の前は昭和初期ころまでは、風光明媚な敏馬浦を訪れる人向けの料亭や芝居小屋が立っていたようです。下の写真は昭和4年ころのもので、近くに海岸があり、そこに浮かぶ船も写っています。

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 さて、肝心の神社の縁起ですが、神功皇后が三韓征伐の前に神前松原(大阪府豊中市、阪急神埼川駅そば)で神集いをした際、美奴売(みぬめ)山の杉の木で船を作れとのお告げを受け、その通りにしたところ遠征に成功したというもの。征伐後(香坂王と忍熊王との戦いの前?)、この地を通り過ぎようとすると、船が動かなくなり、それを神のお告げと感じた神功皇后がここに神社を祀ったというもの。もっとも、船が動かなくなる話は近くの神社にも残っていて敏馬神社だけの話ではありません。

 祭神は素盞鳴尊。神宮皇后は素盞鳴尊フェチで至るところで素盞鳴尊を祀っていますから関係無くは無いですが、船が動かなくなった時のお告げは水の神「美奴売神(ミヌメ)」によるもの(ちなみに「船が動かない」話は生田神社にも残っています。その時の神は稚日女尊とされていて、食い違います)。素盞鳴尊は後世祀られた可能性があります。古事記、日本書紀が編纂される前の時代において、素盞鳴尊の立ち位置が大きかったことを思わせます。神功皇后の義父となる倭健命も偉大なる武人として素盞鳴尊をさかんに祀っていますが、時代の感性としてそういうものだったということでしょう。もっとも、のちに天照大神も配祀されたようですが、主祭神はあくまで素盞鳴尊です。

 

 ちなみに神功皇后絡みの説話のある神社は、欽明天皇の時代、各地に残る神功皇后の説話にもとづいて神社を祀れという勅令に合わせて作られたところが多いという説があります。そうだとすれば、「船が動かない」故事にもとづいて、複数の神社が創祀された可能性もあります。

 欽明天皇がこうした勅令を出したのは、応神天皇の5世と言われる継体天皇の息子だからという説があります。継体天皇はそれまでの皇統から大きく外れた血筋にあり、存立の基盤は5世前の応神天皇しかありません。応神天皇の母である神功皇后の事跡を称える勅令はそのためという話です。

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2015年8月23日 (日)

【参拝記】田縣神社(愛知県小牧市)

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 灼熱の道を楽田駅まで引き返し、20分に1本の小牧線に乗って隣駅の田縣神社前駅へ。

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 駅から木曾街道を少し南下した右手に田縣神社はありました。大縣神社の祭神の子孫、大荒田命の屋敷のあったところです。祭神は大荒田命の娘の玉姫命と御歳神。後者は豊饒の神として祀られることが多いですが、大和に天下った饒速日命の娘。東征した神武天皇を養子として迎えた人物です。ちなみに饒速日命の息子、天香山命(高倉下)は尾張氏の先祖です。この天香山命が饒速日命を祀ったのが尾張一宮の真清田神社です。

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 玉姫命は倭建命の東征に尾張氏を代表して従軍した健稲種命に嫁いだものの、健稲種命が従軍死。その後、実家のこの屋敷に帰っていたようです。健稲種命との間にできた息子はまだ幼かったため、健稲種命の妹の宮簀媛(ミヤズヒメ)が後見人になりました。彼女は尾張国の国造にもなっています。倭建命から草薙の剣を預かり、それを祀るために熱田神宮を創祀したのがこの宮簀媛です。

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 田縣神社ではちょうど茅の輪くぐりが設置されてました。茅の輪くぐりは饒速日命の父親、素盞鳴尊の説話に由来してます。

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 さて、拝殿の左奥には奥宮があるのですが、有名な豊年祭の時に使われる男根が祀られています。しかも、短い参道の両側には、男根や女陰に見立てた石が奉納されています。なんと鈴まで男根の形。拝殿の右には「珍宝窟」なるものまであります。そこには玉が2つ。

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 しかしいつからこういうことになったんですかね。豊饒の神、御歳命が祭神ということで子孫繁栄、縁結びにつながったようですが、いつ頃男根が出てきたのかw

 ちなみに豊年祭の時、この男根をかたどったシンボルを載せた山車が大縣神社まで練り歩くそうです。一方、大縣神社には女陰を祀る「於祖々祭(おそそ祭)」があり豊年祭と同日に開催されるようです。男根と女陰という組み合わせ。凄い神社です。
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2015年8月15日 (土)

【参拝記】大縣神社(愛知県犬山市)尾張二ノ宮

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  予想外の寄り道で時間を食ってしまい、歩く距離も増えてしまった大縣神社へ向かう。無風、快晴、高気温、高湿度に苦しめられながら、ゆるい坂道を登って約30分。ようやく大縣神社に到着。他の参拝者は車でガンガン上がってくる中、1人歩いて登る酔狂なおやじの図です。

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 さすが尾張二ノ宮。神社らしい風格のある鳥居と拝殿です。神社の建築形式は疎いのですが、昨日の大国霊神社もそうですが尾張式という作りで拝殿が長方形で結構長さがあります。尾張式は本殿、渡殿、祭文殿、廻廊、拝殿、楼門(神門)と並ぶようですが、私が拝殿と言っているのは祭文殿と拝殿のことなのかもしれません。拝殿、本殿は参道に対して直角に左回転しています。もっともこれで南面することになるのでおかしくはないですが。

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 さて、大縣神社ですが、祭神は地域の豪族の祖、大縣大神。その子孫に大荒田命がいます。その娘の玉姫命が摂社に姫の宮として祀られています。彼女は尾張氏直系の健稲種命と結婚した人物。尾張氏と連携して尾張の開拓を進めた一族だったのでしょう。

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 境内には大国主命も摂社として祀られています。大国主命は古事記、日本書紀が成立したあと、一斉に新規に祀ったり、もとあった祭神に変えて祀るように指示がでた時に配祀された可能性があります。

 楽田駅をはさんで大縣神社の反対側にある青塚古墳は、この大荒田一族の墳墓とされており、全長123mの前方後円墳。その規模は県下第2位の大きさです。4世紀中葉ころの造営のようです。ちなみにこの古墳、小牧・長久手の戦いでは秀吉方が砦を築きました。

9__r姫石。鳥居の陰に隠れて見えないが女陰の形をしている

 古代史とは関係なさそうですが、大懸神社の「於祖々祭(おそそ祭)」は天下の奇祭。女陰をかたどった山車などが練り歩く。摂社の玉姫命を祀る姫の宮の裏手に姫石があり、これがなんと女陰をかたどったもの。

 これに対し玉姫命を主祭神とする田縣神社の豊年祭は男根をシンボルとする神輿が練り歩くというもの。この山車が大縣神社まで移動して合体と相成るそうです。

 田縣神社は大荒田命の屋敷があった場所。倭建命の東征で夫を亡くした後、玉姫命が実家に戻って遺児を育てた場所です。

13__r神社前の上り坂。この先に楽田駅がある

 さて大縣神社野参拝を終え、再び楽田駅まで徒歩で移動。小牧線を一駅乗って、田県神社前駅へ。この日、最後の訪問先、田縣神社にいざ。

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【参拝記】式内諸鑵神社(愛知県犬山市)

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 名古屋戦敗戦の翌日。傷心を振り払うようにして起床。天気は快晴。なのは良いですが、この日も酷く暑くなりそうな予感がたっぷり。

 昨日に引き続き名鉄に乗って、尾張二ノ宮大縣(おおあがた)神社に向かう。犬山線でいったん犬山まで北上、列車を乗り換えて小牧線を南下し、楽田駅で降ります。11時に到着。

 大懸神社までは2キロ弱の道のり。大した距離ではないのですが、陽射しが強すぎる。歩いてしばらくすると道の左手に鳥居が。そしてその奥の彼方にこんもりとした杜が見えます。石標には「式内諸鑵神社」とあります。ただ、読めないw小さな神社のようですが式内社ではあるようです(式内社:延喜式が成立した10世紀初頭に朝廷から官社として認識されていた神社)。

 たださえ暑いのにここで寄り道をする余裕はあまりないのですが、ついふらふらと吸い込まれるように遠くに見える神社へ歩き始めました。

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 長い参道(と言ってもただの一般道ですが)を数百メートル進むと、ようやく神社前に。神社はこんもりとした杜の中にあり、中に入るとひんやり涼しい。奥には素朴で小さな拝殿が見える。拝殿の前の広場では小学生がサッカーボールで遊んでいました。拝殿は小さいながら比較的最近建てなおした感じ。

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 ネットで調べてみると「諸鑵」は「もろくわ」と読むようです。祭神は建御名方命です。国譲りの際、出雲から諏訪に逃げたあの人物。であれば、なぜ諏訪神社という名前でないのか。「もろくわ」とはなにか。

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 奈良県御所市にある高鴨神社に阿遅鋤高日子根(アジスキタカヒコネ)という祭神が祀られていますが、この「スキ」は鉄器を意味するため、製鉄との関係も想像されます。一方、スキということで農業神というみたてもあります。

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  「クワ」も同様の意味なんでしょうか。ちなみに福島県の棚倉町にある都都古別(ツツコワケ)神社にも阿遅鋤高日子根が祀られていますが、こちらでは開拓神として認識されています。ただ、倭建命が東征した際、神である阿遅鋤高日子根が鉾を授け、苦戦していた倭建命を救ったという話も残っています。鉄器は農業にも戦いにも大きな影響を与えたのですから農業神と戦いの神の両方の性格があったのかもしれません。

 そうなると建御名方命と諸鑵の関係が分かりません。時代が下って諏訪神社は武人からの崇拝が高く、単にそうした経緯で勧請されることが多いのですが、式内社である以上、そういう関係でもなさそうだし。それとも鉄⇒鉄の武器⇒武人⇒建御名方なんでしょうか。考え過ぎかw

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 ちなみにこの神社、大縣神社の祭「於祖々祭(おそそ祭)」の際、ここから祭の隊列が大縣神社に向かうようです。この祭のシンボルは女陰。一方、大縣神社の摂社、姫の宮神社の祭神玉姫が主祭神になっている田縣神社(愛知県小牧市、楽田駅の隣駅のそばにあります)の「豊年祭」は男根がシンボル。この祭りのこの写真凄いです。

 諸鑵神社とこの祭の関係がいつ、どういう理由で発生したのかも気になります。単に隊列の出発場所としてちょうどよい位置にあっただけなのかもしれませんが。

 ちなみに玉姫命は大縣神社の祭神、大縣大神の子孫である大荒田命の娘で、熱田神宮に祀られている尾張氏の当主建稲種命に嫁いでいます。建稲種命が倭建命の東征で従軍死したため、実家の屋敷のあった田縣神社の地にもどったという話が伝わっています。

 で、結局、謎は謎のまま、炎天下の道を大縣神社に向けとぼとぼと歩くことになりました。

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2015年8月14日 (金)

【参拝記】尾張大国霊神社(愛知県稲沢市)

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 京都から名古屋に移動し、稲沢市にある国府宮(こうのみや)駅に着いたのが10時半。駅を降り立ち、数分ほど歩くと、南北に伸びる尾張大国霊(おおくにたま)神社の参道に出ます。

1_r_2 強い陽射しの中、参道は照り返しが激しく、くらくらするくらい。神社の参道といえば木々に囲まれ、木陰の下はひんやりとさえするのですが、この幅広い参道は全くそういった環境にありません。

3__r 参道を進むと巨大な二の鳥居?があり、更に進むと室町時代に作られたという豪壮な神門があります。室町時代のものが今に残っているのは凄い。門をくぐると正面に拝殿があります。一般的な拝殿に比べ、祈祷所のスペースが広く縦長なのが特徴です。

4__r室町時代に建設された神門

8__r_2左が神門、右が縦長の拝殿

 駅名の国府宮にあるように、この地は尾張の国の国府があったところ。国府のそばには総社という名の神社がよく建てられます。この大国霊神社も国府の設置とともに作られた神社です。国司が赴任した際、その国の主な神社をめぐるのですが、総社はそうした神社の祭神をまとめて祀る役割をもっていました。東京都府中市にある武蔵大國魂神社もそうした総社で、武蔵国の一之宮から六之宮までをまとめて祀っているため、「六所宮」と呼ばれています。

 大国魂神社がどの程度そうした総社としての役割をもっていたかは知りません。ただ、ここは国府の「宮」ではあるものの、尾張の一ノ宮でも二ノ宮でも三ノ宮でもないのは事実です。

 尾張の一ノ宮は大和からやってきた饒速日命の子孫である天香山命が饒速日命(天火明命)を祀った真清田神社(一ノ宮市)。

 二ノ宮はその天香山命の子孫である尾張氏と連携した大荒田命の祖先を祀った大縣神社(犬山市)。

 三ノ宮は倭建命から受け取った草薙の剣を祀った熱田神宮(名古屋市)です。祀ったのは尾張氏であり、創建後、熱田神宮を創始した宮簀媛(ミヤズヒメ)とその兄建稲種命も祀られるようになっています。宮簀媛は倭建命と婚約した尾張一族の女性。その兄の建稲種命は倭建命の東国遠征に水軍を率いて従軍した人物です。

 そんな中、この大国霊神社の祭神は尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)。一般に尾張の地主神とされています。ただ、名前が抽象的過ぎて、祭神の由緒がよくわかりません。もっとも一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮があるのですから、総社が特定の歴史的人物を祀る必要はなかったのかもしれません。

 ちなみに大国霊神社には敷地外に2つの別宮をもっています(正式には境内別宮)。いずれも今では住宅地に埋もれ、こじんまりとしています。神社の西南にあるのが大御霊神社、東北にあるのが宗形神社。

 大御霊神社の祭神は大歳神之御子。大歳神の息子という意味。大歳神は大和に入る前の饒速日命の通称で、九州や大阪以西にその名で祀られた神社が数多くあります、その饒速日命の息子というと数多くいますが、尾張に関係するのは、天香山命。一ノ宮に饒速日命を祀った人物です。ある意味順当な感じ。

10__r大御霊神社

 一方、宗形神社は田心姫(たごりひめ)が祭神。これは九州の宗像神社の3祭神の一人。素盞鳴尊と天照大御神都の間に生まれた三姉妹の長女。後に、大国主命との間に、阿遅鋤高日子根神(あぢすきたかひこね)と下照姫(したてるひめ)を産んだ人物です。阿遅鋤高日子根神は奈良の鴨氏の先祖であり、その後京都の下鴨神社を創祀した一族の先祖にあたります。

 なぜ、彼女がここに配祀されているかは不明。いつ頃そうなったかによって事情が見えてくるんでしょうが、そこまではよくわかりません。

 あまりの暑さに小一時間ほどで大国霊神社から撤退。12時過ぎには名古屋に舞い戻りました。宿泊する東横インに荷物を預け、いよいよサッカーモードに。仲間と事前打ち合わせの昼食を取った後、瑞穂スタジアムに向かいました。

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【参拝記】元祇園社(梛神社)&隼神社(京都市)

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 山鉾巡行から一夜明けた25日。この日は名古屋戦のために名古屋に移動する日。とはいえ、泊まっていた東横イン四条大宮のそばに元祇園社があるので朝食前に訪れてみる。

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 ホテルから5分ほどのところ四条通りに面して神社はありました。祇園祭の発端となった神泉苑での御霊会のため、姫路の広峯神社(黒田官兵衛の実家筋が神主)から勧請した牛頭天王(素戔嗚尊)の神輿を祀ったのが創祀。八坂神社の地に正式に牛頭天王を祀る際、花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながらこの地から神輿を移動させたようです。

 当時ここが梛の林だったことから正式には梛(なぎ)神社と呼ばれています。

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Moto_r ちなみに拝殿は東面しています。四条通りに面した北門から入ると右手に拝殿が並んでいます。面白いのは、同じ境内に隼(はやぶさ)神社が梛神社と並んで立っていること。上の写真の向かって左側が梛神社、左が隼神社です。

 隼神社の詳しい縁起は不明ですが、他の地から移動してきたようです(同じ四条通り沿い)。祭神は建甕槌神 (たけみかづちのかみ)と経津主神 (ふつぬしのかみ)。この二人は出雲の国譲りの際、大国主命(素盞鳴尊の娘婿)に出雲の国譲りを迫った人物。その後、抵抗する建御名方命(大国主命の息子)を諏訪まで追いかけています。

 ご存知のように、建甕槌神は鹿島神宮、経津主神は香取神宮の祭神。建甕槌神は常磐地域に割拠してまつろわぬ天津甕星(天香香背男、出雲毛系?)の討伐を武葉槌神に指示しています。日立市にはこの天津甕星を封じ込めた大甕神社があります。祭神は武葉槌神。また、建甕槌神、経津主神は最終遠征の地である仙台の塩竈神社にも祀られています。

 ということで理屈から言えば、素盞鳴尊と建甕槌神、経津主神はあまり相性がよくないことになります。もっとも、八坂神社の素盞鳴尊はどちらかというと牛頭天王の顔をしているので深く考えない方が良いのかもしれません。

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 7時前の境内に、何人もの方がお参りにきていました。ホテルへの帰路、回り道をして町家の雰囲気が残る地区を散歩。そこに風呂屋も残っていました。

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 ホテルに帰り、朝食をとって、いざ戦いの地名古屋へ。途中、尾張の大国魂神社に寄ることにしています。

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2015年8月13日 (木)

【参拝記】建部神社(近江国一宮、滋賀県大津市)

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 山鉾巡行⇒御供社⇒神泉苑の次は滋賀県の建部神社へ。二条城前駅から東西線を経て、山科駅でJRに乗り換えて膳所へ。ここからは京阪線で唐橋前へ。後は徒歩で倭建命を祀る建部神社に向かいます。

 倭建命については、説話くさくて(フィクション色が強すぎて)、かつてはあまり関心がなかったというのが事実。古代史と関係ないと決めつけてたんですが、その後、いろいろ本を読むにつけ、少なくとも東国の遠征については、何らかの史実があったんだろうなと思い始めたのが数年前。それからは結構関心をもつようになりました。

 特に尾張氏との関係が面白いのですが、今回訪れた建部神社は尾張氏とは関係はありません。倭建命は何人もの豪族の娘と婚姻関係を結んでいます。ようは各地域の有力者と婚姻関係を結んでいく政策。この建部神社は倭建命の妻の一人である布多遅比売命(ふたじひめのみこと、父は近江安国造)とその息子、稲依別王(いなよりわけのみこ)が創建したしたもの。倭建命の父親である景行天皇の指示によるものです。

 ちなみに倭建命が草薙の剣を預けたのは尾張氏の宮簀媛(ミヤズヒメ)。尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘で、倭建命と婚約した人物。婚約指輪のようなものだったんでしょう。ただ、遠征後、倭建命が死んでしまうので結婚はしていません。

 その彼女が草薙の剣を祀る熱田神宮を創始(尾張三ノ宮)。兄の建稲種命が倭建命の東国遠征時に遭難死したこともあり、幼い甥っ子の代わりに一族を代表して尾張の国造になっています。ちなみに尾張氏は神武天皇の東征より前に、大和に天下った出雲系の饒速日命の息子の天香山命の子孫です。

 この他に倭建命は両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ、垂仁天皇の皇女)を妻にしており、こちらの息子は足仲彦天皇(仲哀天皇、神功皇后の夫、応神天皇の父)。これがメインストリーム。

 吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)は倭建命の東国遠征に従軍した吉備武彦の娘。入水で有名な弟橘媛(おとたちばなひめ)は大和の饒速日尊の後裔とされる穂積氏忍山宿禰の娘です。

P1090103瀬田の唐橋

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 さて、建部神社。有名な瀬田の唐橋を渡って、しばらく歩いたところにあります。瀬田の唐橋は、古代から、何度も重要な戦いが行われた要衝。神功皇后が三韓征伐から帰ってくる際、誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)の異母兄弟である香坂皇子と忍熊皇子が抵抗。忍熊皇子は神功皇后の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害しています。また、壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となったことでも有名。話はそれますが、神社の近くの交差点の名前が「神領」というのも面白い。  

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 神社は道路から左斜めに入る形で参道があり、しばらくすると参道が直角に左に曲がっています。その先に神門があり、新門をくぐると祈祷書(拝殿?)があり、その奥に別棟の本殿があります。なかなかの風情。

 面白いのは倭建命の事跡を語る看板が参道に並んでいること。それもアニメ風のイラスト付き。倭建命はイケメン、弟橘媛は美女で描かれています。 

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 倭建命の事跡を伝えるのはいいのですが、弟橘媛のみが紹介されていて、建部神社を創祀した布多遅比売命は出てきません(しかたないですが)。布多遅比売命はどんな思いでみてるんでしょうか。

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 神門には風鈴が多数ぶら下げてあり、その音が酷暑をやや和らげてくれてました。神門をくぐると正面に3本杉と祈祷所があります。神門に掲げてあった神紋はこの3本杉をモチーフにしています。

 祈祷書はいわゆる拝殿ともちょっと違う感じ。その奥に本殿があります。本殿は同じ大きさのものが並んでいて、向かって右が大己貴命、左が倭建命。

3honnsugitokitouso_r 三本杉と祈祷書。奥に本殿がある

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右下が倭建命、右上が大己貴命

 神門を入って右手には橋があり、湧水池があります。湧水池にかかった橋を渡ると草野姫命(かやのひめ)が祀られている大野神社がる鎮座。地主神らしいですが、『古事記』では、山の神である大山祇神との間に、4対8柱の神を生んだことになっている人物です。なんで大野神社という名前なのかは不明。同じ滋賀県の栗東にも大野神社がありますが、こちらは菅原道真を祀ったもので関係はなさそう・ちなみにこの神社、嵐の大野くんとのからみで嵐ファンが訪れるので有名。

Oonozinnzya_r大野神社

 建部神社の面白いのは、創祀者の布多遅比売命(ふたじひめのみこと、父は近江安国造)とその息子である稲依別王(いなよりわけのみこ)も祀られているところ。さらに倭建命の両親である景行天皇と播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、そして東国遠征に従った部下も祀られています。一族郎党勢揃いw

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 部下としては娘を倭建命に嫁がせた吉備臣武彦と東征の折、甲斐の酒折宮で倭建命から靭部(ゆげいのとものお)を賜った大伴連武日が行事神社に祀られています。弓取神社には弟彦公(三重の弓矢の名人)が、箭取神社 (せんとりじんじゃ)には石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置が祀られています。この3人は弟彦公が連れてきた部下。

 もっとも建稲種命など尾張系の人物は祀られていません。部下というには勢力が大きすぎるんでしょう。

 小一時間ほど滞在して、再び祇園祭の京都へ戻りました。

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